誰も知らない歌






可哀想なことに、それは少女以外認識している実質上の檻だった。
空間さえも軸をずらされたその場所にはか弱い存在が同時間上で必ず一人だけ放られ、小さな身体に重すぎる責任を背負う。
孤独に耐えかね、心を壊す者もあった。
気丈に振る舞い、しかし力及ばす尽きる者もあった。

否、大半がそれらに分類された。

その分類から大きくかけ離れているのは、ふわふわと白いワンピースの裾を揺らし、腰掛けた大きな岩から足を放り、薄く差し込んだ光を見上げている少女くらいだ。
陽光を織り上げたような優しい色の髪。南国を思わせる柔らかな青い瞳。あどけなさが抜けきらない少女は一度伸びをすると、膝の上に頬杖をついた。
今日は穏やかに日が過ぎる。
尤も少女の感覚に一日というのは酷く曖昧にしか存在していない。
何分少女はこの閉じこめられて完結された小さな世界の中でしか生きてきていないから、眩しく視界を奪う太陽の苛烈さも、暖かさを通り越す熱も自分の身体で体験したことがない。
赤子の時に親から引き離され、最低限の世話をする人間が一人だけ。少女が自らで世界の誰かと接点を置くのはたったそれだけの限られたものだ。
後はただ人の身に過ぎたる純然たる威圧感を持つ、いつかは己の命を奪うだろう存在と暮らす。
歌を紡いで暮らす。
それが少女の日常であって、少女はそれ故に歌姫と呼ばれる。
豊かな世界を支える竜と共に世界の中で尊いものと崇められ、誰もが無意識で認知する犠牲の象徴。
現歌姫の少女は暗い空洞内にゆるやかに降る陽光と、耳を澄ませば聞こえる身体の芯に響く低音の寝息に目を細めた。



可哀想に。可哀想に。昔、そう言った老婆はその数日後には姿を見せなくなった。
あの人の作るパイは美味しかったけれど、その後にやってきた無表情の女が作るスープも美味しかったので気に留めないことにした。そうしないと多分また人が変わるのだろうと漠然と理解したからだ。
接点は扉の下に作られた小さく板が取り付けられた差し出し口。そこから差し出されるものは食事と必要最低限の身の回りのもの。
誰が選んでいるのかは分からないが白を基調にしたワンピースは少女が成長する度に、ぴったりと誂えたようなサイズのものが差し出された。今は裾に柔らかな花の模様が施されたものを身に纏っている。
少し前の黄色のリボンが胸元で揺れるワンピースはもう丈が短くて着られない。あれは少女のお気に入りだったが、小さくなった衣服は纏めて籠の中に入れて渡して、そしてそれっきり戻らない。それだけじゃなくて色々な身の回りのものも大体そうだ。不要だと判断されて戻らないのに、その判断を下す人間を少女は知らない。
抑も自分と扉に誂えられた小さな口から偶に覗く手以外を少女は知らない。
誰かに触ったことさえも無い。
前に一度だけ世話をした人間の手が触れそうになったことはあったが、結局触れる直前でびくりと手を引っ込められ、叶わなかった。

手を握る、と暖かい。

しかし人との触れ合いを知らない少女はそれを知っていた。いつの頃から見る夢のおかげだった。
昼夜の区別もなく大凡決まった時間に眠りつく少女の夢には、自分とそっくりな少年が映り込む。そこで少女は少年になり、母親の寝癖を直すために伸びる手や、父親の頭を撫でる手を甘受するのだ。
暖かい。暖かい。温度さえ感じる夢。
そして或る日気付いた。夢じゃなくて現実ではないだろうか、と。


「どうかお願いです。お許し下さい」
扉の向こう、震える声と共にこつりと扉に何かが当たる音がする。扉向こうにいる世話役の女が扉に額をつけたのだと遅れて理解した少女は「ごめんなさい」とだけ返した。
事務的だった女の感情の滲んだ声を聞くのは初めてだった。
小さく嗚咽を零す女の手が差し出し口の限られた空間から見える。石畳の床に手を着き、まるで懺悔を請うようだ。
冷たい石の上に手をいつまでも置いていたら冷え切ってしまうのに。汚れてしまうのに。
抑も自分が興味を持ったからいけないのか。
次の食事が差し入れられる時、運んでくるのは先程の女のままだろうか。
もし変わっていたなら、間違えたことになるのだろうと、少女は漠然と罪悪感を抱いた。

そして数時間後に温められた食事を差し入れられた時、扉の向こうから聞こえた声には聞き覚えがなかった。





何事かを訴え神官に縋り付いた女が、その手を振り払われ数人の男達に引き摺られていく。
最初は震える声で訴え続けていた声が泣き喚くものに変わった時、扉は無情にも閉められた。引き摺られていく女は誰にも知られずに葬られることになる。
神官はふっと詰めていた息を吐いた。
突然の解雇通知は理不尽に思えただろう。実際、女に比はなかったのだから。
一日三回、決まった時間に食事を差し出す。その時に要り用になる日用品も含めて届け、不要になったものを受け取る。簡単な、頭を使わずとも出来る仕事に、大家族でも優に一月遊んで暮らせる額を支払う。
深く考えずともそれが普通の仕事でないことなど分かることだ。そしてそうであっても魅力的な給金に惹かれて、希望者は後を絶たない。替えは幾らでもきく。
新しい世話役は時間を掛けずとも、次の食事を用意する時間までには見つかる。
そこまで考えて視線を下に落とした。
糊がきいて皺一つ無かったはずの上衣は、先程の女が縋り付いてきた際に随分と強い力で引いたらしい、下につれてみっともなく縒れていた。
暗い色を基調とした上衣の裾はもう合わず、新しいものを用意しなければならない。
彼の上司に当たる神官は何かと身だしなみに五月蝿い。
「候補者のリストを持ってきてくれないか」
指示を出して差し出された紙束に目を通す。
世話役は同性の方が好ましいと言うことで、女性と決まっている。加えて変な知恵が回らない方が良いと平民の出で学を重ねていない履歴を探す。
一番重要なのは狭間にあって丈夫に過ごせることだ。こればかりは持って生まれたものになる。相性ともいって良い。
その点で言えば今日限りで世話役を降ろされた女は適任だった。
歌姫の住む場所は世界にあってないようなものだ。
誰も入り込めないように、中にいる”もの”が逃げ出せないように、次元を歪めてずらされている。
歌姫の世話役は毎日その次元の歪みを通って食事を運ぶ。地上から長く地下洞窟に続く通路は次元を繋ぐ唯一の道だ。多少であれば問題ないが、毎日歪みを通り次元を行き来すれば身体に負荷は掛かっていく。
今の歌姫の最初の世話役に選ばれた女は、次元の歪みに対して免疫が少なくすぐに衰弱した。
次の世話役の老婆はまぁまぁ良かったが、赤子のまま歌姫として選ばれた現歌姫に心を寄せすぎた。
それは好ましくなかったので、事務的に仕事をこなせそうな人間だとして選んだのが三番目の、今日で世話役を降りた女になる。仕事への態度は勿論のこと、狭間を行き来しても余り影響を受けない、本当に適した女だった。
だからこんな些細な過失で替えなければならなかったのは勿体無い。神官はそう思う。


――世界の豊穣は唯一無二の”竜”の存在によって約束され、”歌姫”は”竜”と共に世界を支える存在である。

子どもの頃から誰もが聞かされる教義。
須く世界の豊かさは人間よりも遥かに高位存在である”竜”に因ってもたらされる。
飢えに苦しむこともなく、寒さに凍えることもなく、安寧の日々を過ごせるのは偏に約束された豊穣があるからだ。
昔、一人の歌姫が高位次元である”竜”と歌を通じて意思を通わせた。そして”歌姫”の意思を聞き届けた”竜”はこの地に留まり、人々に豊かさを与え続ける。
子どもでも知る教義は、半分だけ正しい。
実際は”竜”を繋ぎ止める手段として”歌姫”は存在する。
逃げられないように次元までずらされ、誰に触れることも叶わなくなってまでも歌を紡いでいく。
その命が尽きる時まで。

「どうして、今になって外の世界に興味を示したんだか」

歴代選ばれてきた歌姫で、赤子の時分から歌姫を務めるケースは、現歌姫の他に無い。
何も知らぬ内から誰とも触れ合わず、自由を知らず、歌を歌い続けることを当たり前として育てられてきた。
外のことなど知らないし、誰も教えなかった。
興味を持つわけもない。少女の世界は、あの狭く閉じられた”竜”と過ごす空間だけなのだから。
だというのに少女は外の様子を聞いてきた。
”今日は雨なんでしょう?”と正確に天候を言い当てたらしい。
少女と接点があるのは世話役だけだ。細心の注意は払っていただろうが、大方口を滑らせ知られたに違いない。
これ以上、外に興味を持たれては困る。
少女には何も疑問を抱かず、”竜”のために、世界のために歌い続けて貰わなければ。
歌姫として必要な能力の強さは勿論のこと、少女の強みは外界を知らないことにある。
他の歌姫のように外を知らないからこそ、少女は”竜”を畏怖の対象として見ない。少女にとって生きる存在として触れ合えるのは”竜”ただ一つだけで有る限り。
歌姫が力及ばず尽きる原因の一端は、選ばれ了承して歌姫に就いたとして、自らの命をいつか奪う”竜”に恐怖を抱き、隔絶された世界で共に過ごさねばならないことにある。
その恐怖がないだけ、少女は長く歌姫として有り続けられる。誰よりも適した歌姫として。
 
廊下に続く扉向こうに気配を感じ、神官は一度頭を振ると気を取り直す。新しい世話役候補の一人だろう。
トントン、と軽いノックの音を合図に、人好きする笑みを浮かべた神官は「どうぞ」と声を上げた。





恐る恐る伸ばした手は、冷たい肌に当たる。
肌と言うよりはゴツゴツとしていて岩のようだ。色も周囲の岩壁に同化するような暗い色だし、唯一紛れない瞳の色は金色に見えたと思えば、ゆらりと炎にも見えて喩えるのは難しい。
二度、三度。ほっそりとした腕で堅い肌を撫でた少女は、躊躇うことなく頬を寄せる。ひんやりと冷たい肌では暖かいと感じる余裕もない。
さっきまで見ていた夢で、少女は母親の温かな手で髪を梳かれていた。
うとうとと微睡む心地良さと、上から降る優しい声。
一音だけ違う名前。映り込む陽だまり色の髪、鏡で見た同じ南国の海のような瞳。
向かい合って覗き込んだ顔立ちは、少女と少年の性別を差し引いてもとても良く似ていて。
そんな少年の姿で受けた暖かさだ。
「知ってる? 本当は触れたら温かいんだって。あなたは少し冷たいけど、私は暖かい?」
少女の問いに、巨体が身じろぐ。音もなく瞬く瞳はとろりと濃密な酒のような色で、少女を映し出す。
ん? と首を傾げた少女は宥めるように、ポンポンと手で叩く。力も何も体格が抑も違いすぎて、力加減などしなくても別に構わない。
けど少女は、夢で触れられた優しさをなぞるように加減をして触れた。
じっと少女を見詰めていた瞳が伏せられる。
ふふ、と笑った少女は両手をついて”竜”の身体に身を寄せて口を開いた。
薄手のワンピースの上からでも”竜”の身体は冷たくて、少しだけ震えた少女は覚えたばかりの子守唄を歌う。

――夢の中で母が歌っていた。少女でもある少年も口ずさんでいた歌。

閉じられた限られた空間が少女の伸びやかな歌声で震える。
張り詰めていた空気が緩み、ゆっくりと沈んでいく意識を感じる。
”竜”に捧げる歌はいつだって彼の心を鎮めなければならない。慰めなければならない。
一点の曇りもない少女の子守唄は、軈て緩やかに止んだ。
再び眠りに落ちた”竜”の息遣いを聞いて、少女も目を伏せる。
頭を”竜”の巨体に預け、座り込んで静けさだけが満ちる空間で、自らの身体ではまだ味わったことのない暖かさを想う。
夢の中で。その先で。少女は魂の繋がった片割れが見る世界を見ることも感じることも出来るけれど。
この小さな手で直に触れることが出来たなら。

――触れたい。暖かい、その、手。

同じ顔をした少年の手に触れてみたい。
夢ではないと知っているから。レンと呼ばれる少年が確かに存在していて、魂の端で繋がっているのを感じているから。

――初めて触れる人の温度はレンが良い。

いつだったか、世話役の女性に触れそうになった手は無理をして伸ばすことを止めた。
外のことを聞くことも止めた。
知らない誰かが望まないことを少女がすれば、その度に世話役の女性が変わっていく。分からないけれど、決して良いことではない。
務めて平静を装っても入れ変った人間の声を初めて聞く時、震えが伝わる。最後に聞く声は、必死に縋りつく響きを持っている。
幼い頃は気付かなかった些細な機微は、夢の中、陽の降り注ぐ世界を見ることで気付くようになった。
彼らは恐れている。怯えている。何かを。何かに。

ふ、と視線を上げる。
触れた”竜”の肌から何かを感じ取った気がして、首を傾げた少女は「ああ、同じだ」と苦笑する。
時々”竜”の機嫌が良い時に触れる、その触れた先から整理されていない、”竜”の記憶なのか感情なのか分からないものを受け取ることがある。
今、少女の意識をざらりと撫で上げていったのもそうだ。
断片になった記憶は少女には全く理解出来ない。けど自分ではない、ほっそりとした白い腕が躊躇いもなく触れてくる、それが嬉しい。
その感情だけ鮮明に。
寡黙で自分以外が怖れを抱く存在も同じく、温度を、触れることを、望むのだ。
「私とあなたは一緒。一緒だね」
愛しい、暖かさを求めている。
一瞬だけ見えた、知らない人の優しい顔。
会いたくて会えない存在。脳裏に浮かべば仄かに暖かくなって、手を伸ばして求めてしまう誰か。

――でも、ごめんね。

無知のまま育てられたはずの少女は、夢を通じ外の世界を知っている。
世界の為に、自分が閉じ込められていることも。”竜”を繋ぎ止めるために歌い続けなければならないことも。自分が歌い続ける限り、”竜”が解放されることがないことも。全て知っている。
だから、少女は誰にも触れることの出来ない未来を選ぶ。
魂の端が繋がった弟が笑って生きていける世界を守れるのなら、歌を歌い続けて死んでも構わない。
悲壮な決意を仕舞い込んで、少女は「あ」と小さく息を呑んだ。

一瞬、引っ張られるように見えた少年の視界、優しい母親が心労で倒れる姿に息が止まりそうになる。
そして少女を救うため、世界を敵に回すだろう弟の決意に涙を一筋流した。
心の動揺を見透かしたように身じろいだ巨体を見上げ、小さく口を開いた少女が歌うのは、それでも世界を守るための歌。
偽りの楽園を守るための、光の歌だった。





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